「ひげミッキーのそろばんレッスン」のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。

私のそろばんとの係わりについてお話しすることで、ご挨拶に代えさせていただきます。

 

第二次世界大戦の前、私の両親は王子隣保館でともに「そろばん」を教えていました。

戦後、父(橋本孝二郎)は満州より復員し、十条のお風呂屋さんを借りてそろばん教室を始めました。

その後、十条駅横に東京都知事認可の各種学校として「橋本珠算学校」を創立しました。

一方、静岡に疎開し静岡師範を出た母(平岡登代)は祖母と東京に戻り、王子本町でそろばん塾を始めました。

隣保館時代の恩師、八木正雄氏の勧めもあり、両親は結婚、父は母子家庭だった母の姓となりました。

仲人は当時の北区長、高木惣市氏と聞いています。

私が生まれた後、母は裏千家の茶道、池坊の華道を教えるようになりました。

そのため、王子本町の自宅でのそろばん塾は父が指導するようになり、「橋本珠算学校第二教場」となりました。

ちょうど、私が小学生の頃です。

私も他の生徒さんと同じように、小学校三年生からそろばんを始めました。

当時は畳の上に座ってそろばんの練習をしていましたが、同じころに入った上級生がいて、いい意味でのライバルでした。

順調に級が上がり(当時は週5日練習日がありました)、四年生で商工会議所検定三級に合格しました。

中学受験のため、そろばんは一時お休みし、無事私立中学合格。

クラブ活動もせず、午後3時半には家に帰ったのに両親はともに仕事、、、仕方なくか自然と自宅のそろばん塾を手伝うようになりました。(当時のニックネームは、よく下駄をはいていたので『ゲタ夫』)

手伝うと言っても、小学校三年生の基礎テキストの指導と○つけ程度。

この経験が今でも役に立っています。

商工会議所検定三級しか受かっていない状況で教えるのには気が引けたので、高校二年生の時に商工会議所検定二級に合格。

今度は大学受験のため、そろばんはまたまたお休み。

本当は医学部に行って、お医者さんになりたかったのですが、高校三年生の二学期の学年末試験が終わった日に両親に呼ばれ、①浪人はするな、②自宅から通え、③国公立に限るという条件を満たす自信があれば医学部受験を認めると言われ、父親に、「お父さんは会計士になりたかったんだ。」「会計士は企業のお医者さんのようなものだ。」と囁かれ、医学部から文科系学部に変更、2か月で社会科科目(政治経済)を勉強し、数学で受け100点を取る計算で早慶商学部に合格、会計士合格者の多い慶應に進学しました。

大学一年生の時から「橋本珠算学校第二教場」改め、「橋本珠算学校王子教室」を任され、商工会議所検定一級に合格、父親を最大のライバルにして、そろばん指導に当たりました。(当時のニックネームは、『ゲタ夫』改め『みきやす君』)

大学三年生から専門学校に通い、卒業後も学士入学で法学部法律学科に入学し、大学には結局、六年間在籍。

その間に商工会議所簿記検定一級も取得。

卒業の年に公認会計士試験第二次試験に合格しました。

母親が乳がんを患ったため、最初の一年は就職せず補習所のみの生活。

その間、専門学校の経理本科で珠算を教えたりしました。

合格翌年の10月に大手監査法人に入所、以来34年間監査法人に勤め、60歳で定年退職。

退職後、何をしようか模索中に、縁あって民間学童クラブの珠算講師に。(ニックネームは『ひげミッキー』)

その他、専門学校で外国人留学生に簿記や会計学を教えたり、某区役所で保育所の会計指導に当たったりしていました。

また地域では、町会役員、青少年委員、民生委員、スクールコーディネーターなどを歴任しました。

地域小学校では三年生、四年生の算数における「そろばん」授業を行ったりしています。

父親が「橋本珠算学校」を閉校して以来、地元地域で「そろばん」を教えるところはほとんどありません。

地元地域を始め、皆さまのお役に立てればと思います。

宜しくお願い致します。

 

ひげミッキーこと平岡幹康(ひらおかみきやす)